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3ヶ月が過ぎようとしている「例の授業」 [超個人的感想]

アクティブラーニング型授業を行って3ヶ月がたった。慣れない授業形態だが、我ながらよくやっている。

うまく教材研究に時間がかからないようにという話もあるので、そこも考えて授業しているが、部活動の大会でいなくなる生徒たちもいて、なかなか思い通りには進まない時期が長かった。

3ヶ月たつと、うまくいったケースとそうでないケースが出てくるので、やってみないとわからないものだ、という話にもなる。勤務校の先生方ものべ20人ほどの先生が見に来てくれたので、校内的にもそれなりの刺激にはなったかもしれない。ただ、刺激になっただけでは何の意味もない。

「生徒が寝ない授業」というのはそのまま継続している。ただ、モチベーションが落ちると、どうしても雑談が始まってしまうところはある。ダメと良いの線引きがそれなりにある。「雰囲気を大事にする」ということもあるので、ここまではそれほどダメダメ言わなかったが、成績がそれなりに出てきたら、また違った心境が出てくるかもしれない。まさしく教員と生徒たちの相互作用によって成立している生きた授業である。

日本で一番うまい授業を見ていれば、別に学校に行かなくても良いということが言われ始めたときに、学校が学校としての存在意義はなくなってしまう。そうでない価値を生み出すとしたら、そこにいる人たちとのリアルタイムでのやりとりが不可欠であるはずである。そこには「お互いの向上心を持って良い授業を成立させたい」という願いと、人間ならではの「できたら楽をしたい」という思いが行ったり来たりしている。どちらが強いのか、性善説か性悪説か、その二者択一の話なのかもしれない。当初とはまた違う、緊張感がほどほどに解けた3ヶ月後にそんなことを思いながら、一定の成果が問われる試験1週間前を迎えている。

教員採用試験 [超個人的感想]

勤務校周辺の地域では、週末には教員採用試験の1次試験がある。何人かの先生は、その試験を受けるために必死に準備を進めているようだ。

教員採用試験の倍率は、ここ数年は、比較的受かりやすい数字で推移しているといっていいかもしれない。もちろん括りによるだろう。状況によっては、全く合格しない倍率になったり、採用がないということもある。希望者が多いということはその職種に魅力があるということ、反対であればそうではないということになる。単純な話だ。後はやめる方々とやりたいという方のバランス。将来教員が余ったからといってやめさせるわけにもいかないのだから、そこの調整も人の採用ということで吸収しなければならない。緻密な計算の中で採用する予定の人数は決められていて当然だ。

教員を取り巻く状況が最近話題に上ることが増えたが、「ブラック企業的な風土が好きでない」ということであれば、現状は、あまり勧められる仕事ではない。コアなところは部活動、生徒会活動、進学講習、長期休みあたりかな。しかし、もしも、部活動の問題などが整理されれば、世の中のあり方が大きく変わることにつながっていくのはなんとなく想像がつく。教育のあり方が社会のあり方の変化につながっていくからだ。生徒の意識が数十年後の社会のあり方を作っていくとすれば、教育の変化は確実に社会の変化につながっていく。どんな社会を作りたいか、大学受験が変わることが大きな鍵を握っていること、そこで部活動をはじめとする課外活動の位置づけがどうなっていくのか、そういう意味でも、これからの教育改革に注目していきたい。

永遠のテーマ [超個人的感想]

学校祭の活動が最盛期、疲労困憊の中、先週末は熱が上がった。それを乗り越えてでもストレス発散に登山したりしながら、どうにかメンタルを整えている。アクティブラーニング型授業もどうにか続けている。

生徒と学校祭の買い出しに行ってるときだったか、そんな中にいるある生徒にお金がたくさんあって忙しい人生と、お金がほどほどあってゆとりがある人生とどちらが良いか聞いてみた。

即答だった。「お金がほどほどあってゆとりがある人生」。

やはりそう来たか。この言葉だけではくくることはできないが、今の子たちは、そう思っているような気がしたよ。無理はしない。(しわ寄せは責任者にやってくる、という訳か。)

生徒たちは、ブラック企業の話を良くするが、今の時代に生きていれば、そういう子たちが多いかも知れないな。その対角にいる私を見て、彼らは気の毒にと思っているに違いない。

であれば、これからの学校祭のあり方も考えなければならぬ。これからの人たちのために、少し楽ができるように、学校祭のあり方も今年は少し変えてみようと思う。そうしておかないと、根性論で作った伝統では、もはややり遂げられそうにない。

こんな感じで少しライトにするのが、今年の私の仕事のようだ。例年通りでやれば良い仕事かも知れないが、成り立たなくなったら、恐れず内容を変える。批判も多いので、ストレスがたまる。あと1か月、これが終われば、生徒会の仕事は半分以上終わったに等しい。頑張れ自分。

1人にかかるお金が増える [超個人的感想]

今年度は、生徒会顧問をしている。各部活動の実情が入ってくる。世の中の部活動の価値観が変わってきているなあと感じる。

同時に、各クラブのお金がかかるようになってきているのを痛感している。これまでと同じように部活動を援助しようと思っても、どこの部活動も運営費に四苦八苦している。昔も今も同じかというと、そうではないところがある。

少子化で部活動をする人数が急速に減ってきているので、大会の規模が小さくなるが、だからといって必要経費はかかるわけで、大会にかかるお金が増え、結果として、参加費の高騰が起こっている。また、上位の大会に勝ち上がることがかつてよりも比較的できやすくなっているということもあるようで、交通費もかかるようになってきている。結果、これまでと同様の補助をすることはかなりきつくなってきている。今後も、部活動の大会を補助することができるかどうかはひとことで言うと難しい。

参考書や問題集の1冊あたりの値段がどんどん高くなってきている話はしたところだが、この業界では、ほかのものも少子化によって上がっているということを感じる日々である。

やり方をyoutubeで学ぶ [超個人的感想]

学校行事で、外に出る機会があった。近郊の学校ではよくある長い距離を歩く遠足である。生徒の気晴らしという意味合いもあるのかもしれないが、教師にとっても日ごろのストレス解消という意味で、いい時間を過ごさせてもらった。

そこで、何人かの先生方が楽しみにしているのが山菜取りである。どこでそのようなスキルを身につけたのか分からないが、随分山菜を取って来る先生もいて、美味しく味わっているらしい。毎年そのような会話が出てくるので、いったいどうなってそのスキルを身につけたのかと思うが、1年に1度の事なので、なかなか定着しない。

せっかくだから、山菜とりについて調べてみることにした。今の時代、インターネットがあるではないか。すると、狙っている山菜の取り方なるyoutubeの動画が出てきた。なるほど、そういう方法があるのか!これを見れば、言葉で聞いてなかなか理解できない場合にも大いに参考になることが分かった。

考えてみれば、数年前、生徒と焼き肉をしたいという希望があって、火のおこし方を後輩の先生に学んでもらおうというコンセプトのもと、先生方で焼き肉をしたことかあった。先生には少し意地悪に、とりあえずやってみてと言って放置したところで、いつの間にか、その先生は誰よりも上手に火を起こしたのだった。聞くと、youtubeで調べたような話をしていた。

時代は、教師が要らない方向で進んでいるのかもしれない、何でも動画を探せば、それなりの事が出てくるものが結構あるのだから。うーん、恐るべし。

SNSの問題行動 [超個人的感想]

SNSの問題行動の対策をしなければならないことが学校現場では増えている、という話題が絶えない。

時間割担当の間には、パソコンとにらめっこの日々であり、そのようなこととは無縁であったが、そこから離れると、対生徒の事柄が増えるので、話題に参加することが増えた。

今年から情報科担当でもあるので、否応なく、そういう話とも関わりが出てきた。

「そんなこと考えればわかるだろう」と思うことでも、それを教えるのが教師の勤め。一つ一つ今ある社会問題とセットで内容を伝えていく。ファミコンが出てから30年、そこからゲームがどれほどの進化を遂げてきたかを考えたら、次の30年後に入ったらどのような劇的な変化があるか、想像できないくらいだろう。

情報科は、今あるテクノロジーの技術を学ぶ科目という側面よりも、そのような変化にも対応するような指導をしなければならないということなので、「ワード」や「エクセル」を学ぶ教科という位置づけではない。「情報モラル」や「コミニュケーションのあり方」などなどなど、遠い将来を想像しながらその本質に迫るということである。それも教職で学ぶまでは全く知らなかったが、なるほどその世界は広い。

これからも、ますます、社会との関わりで良い意味でも悪い意味でも、SNSとの良い関わりの模索は出てくるに違いない。良い形での活用を望みたい。

職場環境についての世論が変わる [超個人的感想]

最近のインターネットニュースを見ると、教員の職場環境や雇用についてのあり方について、議論が出てきている。

当の職場では、あまりそういう話にならない場合が多い。まあ、それぞれ思うところはあっても、それほどの話にならないと言うことなのかも知れない。過去の価値観であるところの「根性論」的なものと、新しい価値観であるところのお金をもらうサラリーマンと言うことの狭間でパワーバランスが行ったり来たりしているのかも知れない。

特にこの話の大きな話題になっているのは部活動だ。部活動では、1年の中で休みが数日というのは強い部活動であれば当たり前のように行われている。教師にとっての負担もさることながら、生徒にとっての負担もかなりのものである。宿題を出しても部活動で忙しかったのでできなかったというのは言い訳であるところも半分あるが、実際そうであることも否定はできない。この連休中も遠征、校内合宿など、できることは何でもやるという姿勢で臨んでいるところもあるだろう。

それを望んで部活動にのめり込む人たちがいる一方で、そういう部活動なり活動を「ブラック企業」という生徒たちが出てきたことには少々驚いた。朝7時から活動、夜8時まで活動すると、ブラック企業のようですね、という言葉を残す生徒たちが出てきていることに少なからず驚くことがあった。良いかどうかは別にして、「そんなの状況によっては当たり前なんだけど」と思っている私にとっては少し衝撃的な言葉であった。

世の中は変わってきている。次の世代であるところの高校生たちの中で、このような言葉を平気で言える世の中が醸成されれば、働く職場の環境が整っているかどうかということの優先順位が相当高くなるだろうな、と感じる瞬間であった。

私の大好きな番組「プロフェッショナル仕事の流儀」のプロたちの姿を見ていて、彼らとの意識のギャップの大きさを感じている。世の中を代表する人たちとは違うに決まっているのは当然のことなのだが。

副教科の存在意義 [超個人的感想]

これまで数学という教科を教えてきて、俗に言う副教科の授業も担当することになった。これまで通り数学を、数学は単位数が多いので余った単位で情報を、というわけでもないのだろうが、新しい科目を教える中で、日々緊張感のある生活を送っている。

教えて思ったことは、数学と情報では、生徒の気持ちが相当違うらしい、ということであった。受験科目である数学はそういう意識がどこかにあるのだな、と改めて感じた。大して、情報は、教養を身につけるという意味合いが強く、これから生きるために必要なことは何か、を学ぶという側面もある。高校数学程度であれば、それも教養だ、といわれたらそれまでの話だが。

情報で何を学ぶかというイメージとして、excelとwordを学ぶという印象を持っている方も多いと思うが、学校によってはそちらを大きく取り上げるということもあるかもしれないが、基本はそうではない。情報のモラルのこととか、コミュニケーションのあり方とか、もうちょっと幅が広いのである。どちらかというと、保健や家庭科の方のイメージが強くなるかもしれない。

進学校にとっては、この担当の先生方は肩身の狭い思いをしながら教えているのかもしれないが、それでもこの教科は必修だから、高校を卒業するためには必ず学ばなければならない。教養として学ぶ教科をどう教えるか、社会での必要性、これからの社会を見据えた指導など、こちらの意図をふんだんに入れた授業も可能である。

副教科がなぜ必修ななのか、存在する意味を突き詰めれば、教育の意味に突き当たるのかしれないと思う。

学ぶための場所 [超個人的感想]

場所によって「勉強がはかどらない」という人もいる。聞くと、寝床が近くにあるとどうしても寝てしまうと言うことであった。けっこう聞く、この悩み。人はどこで学ぶと良いのだろう。ふと考えてみる。

家では勉強できないという人が、登校して勉強をする。休日に学校に登校する人の大きな理由の1つがそれなのかもしれない。図書館で勉強する人もそういった理由かもしれない。そういう意味でも、万人にとって学ぶための場所がどこなのかと言うことは重要と考えているのだと思う。

別の観点もある。家が一番はかどるという人にとっては、家にいることによってかかるお金も考えるケースがあるのかもしれない。冬場の暖房費や、夏場のエアコン代は家計の圧迫になることもあるだろうからなおさらであろう。

余裕があれば、都心に繰り出し、あえて雑然とした中で勉強をする場合もあるかもしれない。また、自習室を借りるということでお金を払う人もいるわけだから、直接的な学びの場を求める典型例だろう。その場合には、お金ではなく、場所をお金で買うと言うことになるだろう。大人であれば、学ぶための場所に行くためのガソリン代も考慮に入れる必要がある。わざわざ休日に旅行に行って勉強をする人もいるのかもしれない。

お金を払ってでも学びたいという気持ちは、させられてする時にはなかなか芽生えないものであるが、学ぶことが贅沢なことであるということに気がついたときに達する心境なのだろう。生きることは学ぶこと。人間の欲求の1つとして、学ぶと言うことにもっとスポットが当たってもいいと思う。そして、学生は学校という学びの場所をもっと上手に使った方が良いとも。

たぶん、でも、当人は、そういう自覚がなかなか持てないでいる場合が圧倒的だ。

気がついたときには、お金を払って勉強し、勉強する場所を求めている。「自らすすんで学ぶ生徒」を歓迎するこの世の中は、大人の後悔からこの目標を定めているのかもしれない。

特定の大学受験対応 [超個人的感想]

センター試験が終わり、国公立大学の2次試験対策、そして特定の大学受験の対策をしなければならない時期、孤独に取り組んでいる。特定の大学とは言え、なかなか普段取り組むことができないこともあるので、そこの大学のいいたいメッセージを汲み取り、こんな問題を出す大学は何を学ぶところなのだろうということを解読している。

受験生と大学との1つのキャッチボールのようなものなのだろう。今回は国公立大学ばかりではなく、私立大学もあるので、良い刺激を受けている。

3年生の授業がなくなった方が授業数が増えている感じのする毎日を送っているわけだが、このような日々を送ることは悪くない。あとは結果が伴ってくれれば良いんだけど。とりあえず、最善を尽くしてみたい。

週末の名古屋では、推薦試験があったり、私大の出張試験があったりして、着々と次年度の学生をとるための準備が進んでいた。

メールアドレスとパスワードの管理は重要だ [超個人的感想]

ついに個人メールアドレスを変更することになってしまった。どちらかといえば、不本意という要因が大きい。

いたずらメールアドレスがあまりにも多いことで大事なメールが埋没するようになった。

さらに、職場から転送するメールが転送されなくなってしまった。やむなく、いったんメールアドレスを変えることにしたのだが、もとのアドレスが使えないことが判明した。もとのアドレスへの転送ができないのであれば、このサーバーのメールアドレスを持っていること自体が意味を持たなくなってしまった。

結果、so-netのメール会員をやめることになった。ある方が、so-netの会員をいったんやめてしまったときに、うっかりコンテンツもやめることになってしまい、ブログが閉鎖になってしまったという話を聞いたことがあったので、慎重に事柄を進め、ブログが閉鎖にならないようにはできた。

メールアドレスを頻繁に変えるのも連絡なども大変だ。

アドレスを決めるときには、よく考えること、ウイルスメールが来ないようなものでもないとダメだし、ランダムな文字列によるメールアドレスの人も意外にいたりして、メールアドレスの決め方もいろいろだと思う。

いろいろなサービスに入った際に、パスワードをいろいろな形で設定するが、膨大な登録の中で1つ1つ違ったパスワードをつけ、かつ忘れないようにメモるのはなかなかの作業だ。これから生きていくために、1つの重要な課題と改めて認識した。

図書館へ [超個人的感想]

教育免許状更新講習は無事終わったが、その際に図書館に本を借りに行ったところはまって、図書館に行くようになった。

学校の図書館とはまた違った品揃え、世の中のニーズが垣間見える。世の中はこのように回っているのかと学校と家との往復では見えない面を見ることができるので、なかなか興味深い。

たくさんの税金を払っているわけだから、こうした公共サービスを使わない手はないと思いつつ、なかなか足を運ぶことができない。世の中には知っていると良いことはたくさんあるはずなのに、活用できていないことがもったいないと思う。

街にでかければ、購買意欲をそそるディスプレイがある。どこかで何かが動いているのに、何もせずに日々が過ぎるのはもったいないと思いつつ、少しずつ体力がなくなって行動範囲が狭まっていくのは、人生にとってあまり良いことではないな、と感じている。冬は行動範囲が特に狭まるので、この時期にやれることは何か、少し真剣に考えてみたいと思った。

図書館にはいろいろな人たちがいる。いろいろな人たちがいることに感心したり、生活の一部のように通っている人たちを見かけると、老後は図書館に通いながら生活するのも悪くないだろうなあ、と思う。

最後のセンター世代、そして [超個人的感想]

現中3が最後のセンター試験を受ける学年となるはずである。この学年が最後のセンター試験学年。

いよいよ次の「新しい試験」の世代が高校に来る日も近い。目の前の人たちもそれはそれで大事なのだが、新しい世代の人たちの方がこれからは中心になっていくことになるのかな。

新しい世代の人たちにどのように対応していくか、すでに中高一貫校では想像しながら対応を進めているわけだが、高校も入学してくるので準備に余念がないはず。

でもどんな準備をすれば良いのかというのは、内容が確定しているような、いないような話でしかないのでこの対応についてはかなりばらつきがある。「先を見る力」が求められるが、少なくとも、大学のテストがどのようになろうとも変わらなければならないという意識が高校にはできあがっているのは間違いない。アクティブラーニングなのか、反転授業なのか、課題学習なのか、探求なのか、ネットを使った授業なのか、何なのかは不明だが、教育界はなかなか変化しない業界だと思っていたが、今回は意識がそれなりにあるように感じる。

どのように変わっていくのか、ベテランの先生方ほど不安の度合いが大きいように思うが、なんとかついて行けるように準備を怠らないようにしなければ。

数学と情報の二刀流 [超個人的感想]

昨年の6月に自宅に送られてきた高校情報の教員免許。

これで、数学しか教えられないと言うことではなくなった。もっとも、教科情報ができたばかりの時には、情報の教員が少なかったために、特別対応がとられ、そのときであれば、お金はそれほどかからなかったと思われるが。

数学科の中で他の教科を教えることが許されない状況下にある私は、その選択肢の中に入れてもらえなかったのであった。仕方がないので自分でとることにしたのであった。

いつ教えることになっても言いように、とりあえずNHK高校講座の「社会と情報」をみることにした。

考えてみると、数学の答案を見ることと、情報の答案を見るのとではかなり違うはず、いろいろなことが新鮮に見えるこの免許が残りの人生の中で有効に活かされることを願う。

一時期は教科情報は廃止の方向があるのかなと思っていたが、それどころか、さらに位置づけがましてきているようなので、今後の展開上あった方が良かったのかな、と今更ながら思っている。

テレビ局に取材された [超個人的感想]

遅くなりましたが今年もよろしくお願いします。

長い冬休みなりましたので、少し長い旅に出ていた。途中山登りをしていたところ、某全国ネットの番組の取材を受けてしまい、びっくりした。去年からはじめることになってしまった山登りでなんだか遠い知り合いが何人かできて驚く毎日を送っている。

人生はどこで何があるかわからないものだ。筋書きの中ドラマが今年も繰り返されるのだろうが、さしあたり、命の洗濯をした感じだ。

おびただしい量の撮影をしたわけだが、ときどきそれを見ながら旅を振り返り、次のステップに進みたいと思う。

異業種格闘戦 [超個人的感想]

教員免許状更新講習が終わった。およその年齢がばれてしまうが、まあいいや。

話し合いをしながら、講習を行うと言うことで何となく緊張する。

普段話すこともないので、何が出てくるのやら。教員免許状更新講習の中でも、選択できる人が幅広かったので、中学校の先生、小学校の先生、幼稚園の先生、免許を更新するために来たけれども、現在は無職の方もいた。

よく考えてみれば、この発達段階ではこのような課題があるよなあと思うけれども、その方々と話し合うことは皆無。高校の教員からすると、子どもの頃はどのような課題があるのかなどの話を聞けるのは貴重である。逆に子どもの頃に課題を残せば、大きなことになるかもしれないというのが高校であることもわかる。

どの世代も社会の影響を大きく受けている。言うまでもなく、どの世代も大変だ。確かにこういう経験は、現場の先生には必要なのかもしれないと思った。お金がおよそ3万円かかる(交通費のぞく)ので、そこはどうにかしてほしいとは思うけど。

実習自体は終わった、あとは認定がされれば、10年後まで講座は受けなくても良いはずだ。

免許4つも持ってどうするんだろう、とちょっと思うけど。

恐い先生の授業はよく聞く [超個人的感想]

成績を何となく眺めてみる。すると、明らかに教えている先生と成績の相関がはっきりと出てくる。

1つの傾向としては、聞かせることができる先生の担当クラスは成績が上昇する傾向が顕著である、ということである。

その逆は、残念ながら、下がる傾向にあるとも言える。

先生方のキャラクターはあるが、怖い先生のクラスの成績が高いというのは、大人から見ても何となくわかることであろう。要するに、話を聞いているかどうかというのが、成績が伸びるか伸びないかの大前提である、ということである。

別の方法で聞かせることができる先生は、強面でなくても良いのかもしれないが、それには並大抵の工夫と研究ではできないことなのかもしれない。それほど、恐い先生というのか効果がてきめんなのかな、と感じる。

要するに、成績が伸びるか伸びないかの差は、「話を聞かせられるかどうか」。起きて話を聞かせられるかというところに教師の力量があるのかな。そういうのは嫌いだという先生方も多いだろうが、それが一方での現実であることは、数値でみると一目瞭然であった。

マンガで日本史 [超個人的感想]

ビリギャルの話の一部に「マンガで日本史を学ぶ」と言うことが出てきた。

図書館に行ってみたところ、いろいろな日本史を学ぶマンガがあることがわかった。日本史を学ぶ導入としてはいいのかも知れないとは思うが、日本史を学ぶ上で、解釈などの問題はないのだろうか。学校で学ぶ日本史は、諸説ある中でも当時有力なものを学ぶのだろうが、諸説が変わることもあり得るだろう。したがって、教科書の記述も変わっていくはずである。それことを踏まえて学ばないと、教養として学ぶと言うことであればまだしも、教科書の世界の中で点数を競うとなれば、そのマンガの良い悪いが出てくるはずである。そういう意味では、受験生にとっては「どのようなマンガでも良い」というわけではないということになるだろう。

私はそのくくりからは外れるので、そう困ることはないだろうが、諸説あるということでの教える大変さはあるに違いない。そういう意味では、数学は解釈がどうこう、という話ではないので困ることはない。

もうひとつあるのが、受験勉強で選択科目として日本史を選んでいない場合には、その知識は中学校以来の知識で止まる可能性が高い。必修で学ぶと言うことであれば、まだ頭の中にのこると言うことはあるのかもしれないが、それがなかったら、文系の学生からは相当馬鹿にされそうなレベルで知識が止まってしまう可能性は高い。逆に数学や理科で理系が文系を馬鹿にするようなレベルであることがあるということにもなるので、お互い様と言えばそうだが、良いんだか、悪いんだか。

義務教育がそれだけ大事だ、ということになるのだろう。

高校受験が推薦試験で、合格した後、気が抜けて、中学の学習内容の最後を飾る三平方の定理がすっぽり抜ける子がいるが、合格後の内容も義務教育。ちゃんと勉強をしないと、恥をかく。

水は命 [超個人的感想]

先日、山登りに行って来たとき、帰りがけに水場があった。そういえば、しばらくぶりにこのへんに来たから、立ち寄ることにした。

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このへんではちょっとした有名なところで、有名なラーメン屋さんが「ここの水を使って調理をしている」と銘打って、はるばる水を汲みに来るようなところである。来るだけで2時間くらいはかかる場所なはずだが。

汲むことはここについては無料。とんでもない量のポリタンクを持ってやって来る人も多い。1トンくらい汲んでいるのではないか?こんなに誰がどのようにして飲むのかと思うくらいの量のタンクを上手に満タンにしていく。この水の保管などはどうしているのだろうか、と、余計なお世話だろうが、思ってしまうほどだ。

「水なんてどこにでもあるじゃないか」と思うところでもあるが、確かにここの水を飲むと、「水道水とは違うなぁ」と思ってしまう。考えてみれば、世の中には、お金を出して水を購入する人がいる。周りを見渡しても、そういう人が増えてきている気がする。比較的自然豊かな場所でもそうなのだから、そうでないところではもっと水の大切さが認識されていることだろう。

他方で、この水をたたえる地域の山が気がついたら外国人にいつの間にか売られているという話も時々ニュース番組で取り上げられることがある。これからは水の大切さをさらに感じる時代がくるに違いない。そうなったときに、気軽にきれいな水を手に入れることができる環境がなくなってしまったとしたら、それは残念なことになってしまうかもしれない。

この、きれいな水を汲むことができる時代が長く続くことを祈りたい、と願う。

なお、ここでは、きれいな水を使った食べ物が飛ぶように売れている。特に豆腐が美味しい。思わず買ってしまって大満足である。

アクティブラーニングはどうなっていくのか [超個人的感想]

2020年が近づいてきた。東京オリンピックというのもそうだが、センター試験に変わる新テストがどうなるかという意味で注目が集まる。

キーワードになるのがアクティブラーニングで、どのように取り組んでいくのかということで注目が集まっている。しかしながら、これが教育界にどのように浸透していくのか、結局浸透できないのではないかという予想も成り立つ。

そもそもアクティブラーニングがどのような形を意味しているのかが曖昧だし、そのような学びをしていない世代にとっては、この導入には大変な労力を割くことになるだろう。特にベテランの先生ほどこの手のことには抵抗感が強くなると思われる。ましてや退職数年前の先生となればなおさらのことである。そういう先生方も含めて、本人が想像をしない世界のことをやるように命じられたときには、それ相応の柔軟性を持たなければならないはずである。

これまでもいろいろな取り組みがうまくいなかった教育界。その1つの代表例が『ゆとり教育』と言われたカリキュラムでの取り組みであった。言葉が一人歩きしてしまい、良い印象がないが、後に『脱ゆとり』ということでその流れを断ち切るように動いた教育界の流れを見ると、このようになっていくのではないかという予想も根強い。

ただ、ゆとり教育のときよりもかなり強い調子で今回の改革は推進しようという意気込みは伝わってくる。現場の先生方が大量に変わるこの時代だからこそできることでもあるのかもしれない。ただ、相当な意欲がないと、現場はそう簡単には変わらないというのが教育業界である。どのようなことになっていくのか、展開が読めないシナリオが大きく動きつつある。

ただ、うまくいけば良い成果が上がるとは思うが、現場はそんなに簡単ではない。そう、それが教育業界なんだろうな。思い通りにいくほど、簡単ではないことを身をもって体験しているのでなおさらだ。

問題を作る側に立つと起こること [超個人的感想]

問題を作ることが多々ある。

作ると、基本的に「異様に難しくなる」ことが多い。作っているとそれほど難しいと思わなくても、別の人が問題を見ると、「誰が解けるんだ、これ?」という話になることも少なくない。

そう、問題を作る側は基本的に難しい問題を作ってしまう傾向が強い。その問題にはどうやらそれなりの思いがあって、これくらい解けてほしいという思いが空回りすると、とんでもなく難しい問題であったとされ、「成績が分布しない」と非難されてしまうことになる。ここら辺のさじ加減がきちんとできるかどうかと言うのが1つの教科担当者としての力があるかないかの根本的な差なのだろうなと思う。

教師の中でも科目で異様な力を持っている人が教え方がうまいかと言えば、必ずしもそうではない。異様に力がありすぎて、教えられないのである。「当たり前すぎて、説明の必要がない」というレベルまでいってしまうと、そういうことに陥ってしまう。知り合いの予備校の先生と話をした際に、そのような話を聞いたことがあった。むしろ、ほどほど苦手な(謙虚に表現して)方が良いのかもしれないということでもあった。

「できること」と「教えること」は違うということを表した1つの例かもしれない。

問題を作る際の難易度、非常に気を配らないと相手がいる職業なので、相手が混乱に陥ることになる。そこを泊めて、あえて遠回りを惜しまず伝えるセンス、自分に酔って難しいことばかりを伝えようとしないセンスということが、教えることを仕事にする者の大事な要素だと最近感じている。

アインシュタイン・ロマン [超個人的感想]

部屋を片付けていたら、大学時代の本やノート、ビデオテープなどが出てきた。

そのひとつが、当時NHKスペシャルで放送されていたアインシュタイン・ロマンという番組であった。当時は大変楽しみに見ていて、書籍にもなったので、それも含めて何度か読んだことを記憶している。

物理の話だが、当然数学の話も出てくる。科学の発展の歴史を知る上でも大変興味深く、知的好奇心をくすぐる内容として当時、大変お気に入りにしていたことを思い出した。

時代は過ぎても、色あせない知的好奇心の旅は、人類永遠のロマンなのだと思う。ネットで検索したらDVDとして発売されていた。結構な値段するが、教材として買ってもいいかな、と思う名作である。本ももう一度読み返してみようかな。

勉強をすることが、夢があることを伝える物として、当時、このシリーズを読んで学び直し、大学に入学した方がいるなど、何かと話題になったことを覚えている。学ぶこととはどういうことなのかをどのように指導するかが取りざたされているが、改めて学ぶことの面白さを教えてくれる王道を教えられるようなもので素人でも入りやすそうな者はこれからもう少し注目されてもいいのではないか、と感じる。

DVD


書籍(第1巻のみ)


こういう文章を書くと年齢がばれてしまうが・・・。

よくまあこんな問題考えるものだ [超個人的感想]

毎日のようにセンター試験関連の問題集を解いている。1日少なくとも60分問題1つ程度解いている感じ。

毎回感心するのは、よくぞまあ、こんな問題を考えるものだね、と言うことだ。最近はベネッセの実戦シリーズを解いているが、売れているだけあって、なかなか興味深い問題が多く、感心している。

基本的なラインはどこぞの問題を真似して作るのかもしれないが、それにしても、それなりの問題になっているのだから驚く。もちろん、ちまたに膨大にあふれる問題の中には、明らかに違和感がある問題があることも事実だが・・・。

数学の問題さえ解いていれば良いのだから、数学屋さんはまだ良いのかもしれないが、生徒からすると、定番の問題など把握できるほどの余裕がないことも含めて、さぞかし大変だろうに。それを回避するためには、低学年からきちんと学んでおく必要があるということだな。結局は、早い段階から手を打たなければ帳尻は合わない、と言うことである。低学年からセンター試験対策をすると、考え方軽視に繋がるので、そこは考えなければならないと思う。

さて、数学屋は毎日のように数学ⅠAと数学ⅡBの問題を解き続ければいいので、定番問題に対しての瞬発力はある。見た瞬間それなりに解法に対しての見通しが見えて、それに沿って解くことができるかどうかが第一段階だろう。

それでもそこそこまでは当然行くことはできるが、それよりも上を求められる問題は数学ⅡBには多い。そこでどれだけ粘れるか、そこが1つ抜けた点数を取れるか取れないかの大きな差になっている気がする。攻め方を教えられても、どの問題の解法もすべて網羅できるわけではないので、解き方の本質を教えることになる。問題を解く際に、その本質を見抜くところまでは解いておかなければならない。そこまでの作業を丁寧に行うこと、それが教師にとっての「問題を解く」と言うことである。そこまで解いた感想が、標題のセリフになっているのである。

感心するというか、なんというか。

平等は難しい [超個人的感想]

時間割変更について。

1つを立てれば別の1つは立たない。どちらかにそろえなければならない。

全部やるのであれば、それは平等。
全部やらないというのであれば、それも平等。

それが究極の平等のようだ。

勝手気ままな人もいるので、手段を選ばず、ルールを曲げようとしてくることもある。曲げられないようにこちらも防ぐ手を考える。権力を使ってねじ込もうとするものもいる。けっこうやっかいだが、ガラス張りの時間割作業という名目の中でこれもかわす。見える化と言うことの大切さを知る。これを認めると、権力がある方が有利ということになるだろう。それもまた平等ではなくなる。

何でそんなことまで考えなければならないのか、よくわからないが。時間割は、人間関係の縮図。あまり長くやる仕事ではないことは確かだ。

質の高いドキュメンタリー番組のススメ [超個人的感想]

世間はドキュメンタリー番組を見なくなる傾向が顕著になりつつある。クオリティーの高い番組も減りつつある。

例えば、ドキュメンタリー版とそれを題材とした映画版のそれのどちらを選択するかと生徒たちに問えば、多くは映画版を見たいという。でも、ドキュメンタリー版の方が、当然のことながら説得力は違う。それは映画版に出てくる人たちも演じながら理解しているに違いない。

私が見るのは、ドキュメンタリーが多い。生徒たちと番組を作ったことがあるからということでもあるだろうが、やはり、そこから得られるものが違う。生徒にとっては人生の生きる指針のようなものになることもあるし、対象の方とは一生のつきあいになる場合もある。そこには、生きるためのヒントが隠されているように思う。

取材となると、根性が必要で、経費なども随分かかることだろう。でも、その時間をかけたことは必ず映像には映り込んでくる。作り手もそこに経費をかける余裕がないのだが、そこには訴えかけるものには説得力がある。テレビ局の朝のニュース番組が新聞の内容を取り上げていることは、取材をする余裕がなくなったテレビ局の余裕のなさを感じてしまう。そういう意味では、新聞も重要な情報ソースになっていってもらいたいと思う。

テレビ局はもちろんのこと、そしてそのような番組を聴くことが皆無になってしまった感もあるラジオ局にも、そういった質の高いドキュメント番組を作成することに期待したい。深夜枠で細々とドキュメントを流す世の中の流れもあるのは残念だが、生きる指針を与えてくれるような番組制作を心から応援している。

季節は紅葉、そして冬 [超個人的感想]

3連休、とは言え、やることはたくさんあるので早めに逃避行。天気が悪いという情報もあった。

2日前、NHKの全国版で紅葉のシーズンと放送があった場所は天気がいまいち良くなかったが、思い切っていってみることにした。

山を撮るのも良いが、湖沼地を採る方が画になる。
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ブログにアップしている写真はほんの一部だが、私のパソコンの中には、このような静止画やら動画が山のようにたまっている。撮影に行くと、だいたい聞かれるのが「プロの方ですか?」ということである。プロではないが、専念できるようになれば、もっと異次元の撮影ができるだろうな、と思うが、現状は愛好家のくくりを抜けることはできそうにない。

残念ながら、このような撮影シーズンもまもなく終わりを迎えようとしている。今回、ドローンのエラーメッセージとしてはじめて「寒いので動けません」的なエラーが出た。季節は少しずつ冬に向かっている。近くの山を登ったら、雪が降った形跡があった。

気がつけば時が経っていた [超個人的感想]

勤務校に勤めて随分たち、定年の年齢がかわらなければ教員生活の半分はここにいることになる。気がつけば、当初いた先生はほとんどいなくなってしまった。

私立高校だから、ふらっと行けば知っている先生がいるということが多いのかもしれないが、それもタイミングなのかもしれない。あまりにも時間が経てば、ほとんどいなくなってしまうときもあるものだ。

久しぶりに昔から勤務校に勤めている先生に会い、あの先生はどうしているか、辞めた場合にはその理由までさかのぼって質問を受けた。

年齢が高い先生なので、今の時代は、1つの職場に定まらないものなのだな、という話をしてくれた。時代がそうだと言うこともあるのかもしれない。今の職場にいるのは、あくまでも選択肢の1つであり、事情があれば、いなくなってしまうものなのだな、ということのようだ。かつては何が何でも勤め上げるのだが、ということであった。

生徒たちの考え方、生き方は、我々の世代が親なのだから、なおのこと、本人の生き方を尊重してくれる。多様化なのかで、教育サービスの方も多様化していく。良いのか悪いのかわからないが、とりあえず、そうすることになっていくのは必定だろう。それでも成り立つような社会に少しずつ変化していく必要もあるのだろう。

社会は緩やかに変化していく。そしてそれに対応できるものを提供しなければならない。言葉で書けば当たり前の話なのだが、それに対応できるかどうかと言うのは、柔軟性が必要な話でもあるなぁ、と感じた。教育の世界はなかなか変化しないものだ。こちらが相当意識しないと、変わっていくことが難しいらしい。


ビジネスホテルのような新しい教育寮で宿直の仕事をしながら、朝を迎えた。居心地の良い生活空間に身を置きながら、いきなり荒れ果てた場所で生活しなければならなくなったら、適応できるのかな、と少し思った。

さて、今日も1日がはじまった・・・きちんとアンテナを張らないと、世の中に取り残されるぞ・・・。

お金で知識を買う [超個人的感想]

お金がもったいないと思うこともあるが、思い切ってお金を投資したら、人生が豊かになるような学びができることもある。

最近はリアルタイムで調べる必要があることは、ツイッターで調べることが多くなった。なんだかんだ行って、全国の誰かが感想めいた話を書いていたら、信憑性がある反応である可能性が高いと思うからである。ただ、あくまでもそれは天気とか、風景とか、自然の何かについてとか、その手のことに限られるのかも知れない。深みがあることの調べ物はインターネットでは限界があることもなんとなくわかってきた。

そうなれば人間から学ぶということが一番手っ取り早いのかも知れない。やっぱりそこなのかな、と思う経験をした。専門家の方から教えてもらうという経験である。レクチャー代はかかったが、本屋読み物と違って、聞いたらリアルタイムで帰ってくるというのは大事なことだなあと感じた。そして、そこで得られた知識が死ぬまで使われるのだとしたら、それはそれで必要な投資なのかも知れない。

それは学校も同じ。確かに本を読んだらわかるのかも知れないが、本はそれぞれの疑問に答えてはくれない。想定される疑問やそれに対しての解答は書いてあるかも知れないが。学校で学ぶことの意義を感じる経験をした気がした。学ぶ側の時にはまったく自覚はないだろうが、学ぶ側にとっては大事な時間を過ごしているはずなのだな、きっと。

人生は一生勉強だな、と思った。

学校がなくなるということがあるのかどうかはわからないが、人と人とがやりとりをすることは人工知能がかなり台頭してこないとまだなくならないのかな、と思う。しかし、考えてみたら、ルーティーンワークはあっという間に人工知能に駆逐されてしまうかも知れない。

そういう意味でも、コミュニケーション力がこれからはさらに必要になるのかもしれない。

芸術鑑賞のプログラムに思うこと [超個人的感想]

芸術鑑賞があった。

私は生徒ではないのでお客さんではなく、企画する側になるわけだが、企画する側の意図が色濃く反映される行事のように思える。前にいた芸術科の先生のときには、とにかく芸術とは何かと言うことを問い続けて、こうあるべきであるということを色濃く反映させた企画が多かった。

しかし、その先生が辞めてしまった今となっては、その色は影も形もない。企画する側の考え方というのがこれほどまでに出る者なのかと驚かされることの1つである。

残念ながら、芸術科の専任の教員が1人もいないので、そういうこだわりを発揮することができる教員がいない、ということになってしまった。いなくなってからと言うもの、そのようなこだわりがなくなってしまうのもどうなのかな、と思う。

ただ、皮肉なことに、生徒には非常に好評である。

同じようなことで、以前にいた養護教員が退職されるまでは、自動販売機に炭酸の飲み物はなかった。これはどうやらその先生の特別なこだわりがあったらしいが、今となっては、炭酸も普通に売られている。その先生がいなくなるのを見計らってそのようなことが起きるというのも、少し残念だなあと思うのは私だけなのだろうか。

面倒くさいことを言う人を煙たがる1つの例になるのかもしれないが、そういうのがあるということも、教育の現場ではあって良いのではないかと個人的には思っている。

また年をとり、のめり込む日々が続く [超個人的感想]

年をまた1つとってしまった。

1年くらい体調がすぐれない時期を過ごしていたが、それはようやく脱した感じがする。ということは、1つの曲がり角を越えたことになる。

在籍する学校が変わらなければ、近くに知り合いがどんどん増えるわけで、もはや、何かをしていたら関わりのある場所が非常に多くなってきた。プライバシーは減り、そういうのが嫌な人にとっては、あまりいい環境とは言えないのかも知れない。

しかし、前向きにのめり込んでしまえば、そういう環境も悪くはないのだろう。それが私立学校の良さでもあるのだと思う。確かに大変なことは多いが、そこに生きがい・やりがいがあり、傾注できるものがあるのであれば、命がけで何かをなすことができるという意味でのメリットは大きいのだと思う。

逆をいえば、お金をもらうために仕事をしているような人にとってはある意味苦痛でしかないのかも知れない。特定の場所に住んで子供を教育したいということであれば、多少大変でも仕事場としてはいいのかも知れない。

私立学校の取り巻く環境は大変だ。朝は早いし、夜は遅いし、プライベートな時間はないのかも知れないが、のめり込むものがあるとしたら、それはそれで幸せなことかも知れない。

ただ、私はどちらかといえばのめり込んでいる方だとは思うが、体力がないとのめり込むことが難しくなるのが目下の悩みである。やりたいことがあっても、それに見合う体力がないと体がいうことを聞かない。ここしばらくの体調不良は、そのことを学ばせるための試練だったのかも知れない。

無理をできない年齢になったのが、少し悔しいが、そこは経験でカバーしよう。きっと、この年のスタンスとしてそれが正しいのだと思う。
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