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中堅以上の国公立大学2次対策向けは「こだわって」 [受験生たちへ]

私が参考書や問題集を見るようになって大分経ったが、この時期から取り組む国公立2次対策向けの問題集はこれになると思う。

いくら2次対策は、センター試験ほど科目数が多いわけではないにしても、全冊取り組むのは難しいだろうから、各大学の頻出分野からつぶしていくのが1番いいように思う。事前に良く研究して、必要なものを買っておきたい。

最近は、2次試験とはいっても、そこまで難しい問題を出せない(合否のラインを作るほど分布しないと困るので、ほどほどの難易度にしなければならない)関係から、そこまでの難易度の問題を練習する必要がない大学も多い。店頭で一度見て、難易度を把握した上で購入すると良い。









センター試験の心理戦を回顧する [受験生たちへ]

センター試験では、試験科目の順番というのが心理的に影響する。

今回の試験では、数学ⅠAのインパクトが、数学ⅡBに大きく影響した、という話がけっこう聞かれた。

受験生の心理は、うまくいかないと焦るということになるが、「そのへんの準備をしろ」といっても、なかなかできるものではない。普段の心がけでイメージしていくか、他の経験を通して、気持ちの切り替えなどをしていく心がけなどを養っていくものなのだろうか。

突き詰めていくと、ただ単に受験の経験だけで、物事のアプローチの仕方を学ぶには限界があるのかもしれない。さまざまな経験を通して、緊張感がある場面でどうするのかとか、そういうことも学んでおいた方が良いのではないかと感じた。

受験勉強ばかりやって・・・人間的に成長できるのかという問いもある。人間を総合的に育てるような方法が何かあるのではないか。勉強だけに偏ることで何か大切なものが失われていっているかもしれないというのは、勉強ができない人の言い訳なのだろうか。要はバランスの問題のようにも思えるが。


そのことも含めて考えると、センター試験の受験というのはまさしく人生の縮図と言える。

センター2日目・・・解答速報、そして自己採点へ [受験生たちへ]

センター試験2日目が終わった。2日目は理系科目なので、結果が気になるところだ。

センター試験の問題のネット公開は、最近大分遅くなり、解答の速報も時間が遅めに制限されているようだ。マスコミには何らかの制限がなされていると考えられる。

傾向→問題→解答速報

というのが流れのように思える。


さて、昨日は科目上の配慮について書いたが、自己採点のことを少し書いてみよう。

かつては、自分がセンター試験で何点とったかを知ることができなかったので、私も自己採点の結果として何点だったのかはわかるが、正確な点数は知らない。

今では、請求すれば、何点とったかがわかるようになっている。しかし、それはすぐにわかるものではない。

情報公開の一環であろうから、それはそれで良いし、その方が受験場のミスも少ない。マーク試験なのだから、公表することも問題はなかろう。


この点数をもとに進路指導するという観点において、自己採点の点数はかなり高い精度でないと困る。少なくとも、±10点以内にはないといけない。

自己採点は悪い方に書いておいた方が良いだろうから、曖昧な印しか書いていないのであれば、間違えていると考えておいた方が無難だろう。


これまで受験生たちは、模擬試験の点数と自らのイメージによって志望校を決めていたわけだが、今度は、現実とすりあわせることになるわけだ。

自滅した生徒、マーク試験の適当に答えた問題がほとんどあっていた受験生、さまざまだろうが、冷静に結果を見つめつつ、人生の大きな決断になり得る次のステップを考えてもらいたい。


多くの学校は、明日自己採点、木曜日速報、金曜日進路指導という流れになるのかもしれない。私大受験の締め切りが近いことは念頭に置いておかなければならない。センター型の締め切りは終わってしまったところもあるだろう。

センター試験前日にできること [受験生たちへ]

当たり前のことはされることを前提とした上で・・・
 ・早寝早起きすること
 ・眠れないときには、これまでに大変だった日々を簡単に思い返すこと
 ・翌日のセンター試験の速報は見ない(すべてが終わってから自己採点する)こと
 ・困ったときの連絡先を確保しておくこと(大雪などによる交通マヒの対策)

「大変だったけど、これだけやったんだ」というものがある人は強い。

 当日は、いいイメージで臨むことが大切だと思う。自滅しないように、気をつけて。

 明日は、「問題はじめ」といわれたときに最大の集中力を発揮できるように気持ちを整えよう。ここまでくると、それが一番大事だ。

受けないが受ける人が周りにいる場合に思うこと?


多少うるさいところでの勉強で結果を出すのも練習が必要? [受験生たちへ]

模擬試験の会場で普段慣れている人たちが多い会場(学校など)だと起こりえないことも、本番では十分に起こりうる。その一つにいろいろなことが気になると言うことである。「カリカリ・・・」と自分以外の人間が字を書く音が気になって試験に集中できないという経験はよくあることだが、他の受験生が鼻をすする音、深いため息、机や椅子のきしむ音など、試験に関係ないノイズというのは思う以上に存在する。だからといって、注意するわけにもいかないし、威嚇するような音(?)を出すわけにもいかない。変なパフォーマンスをする受験生(というに値しないような人?)がいるかもしれない。要は、その状況下でいかに最大のパフォーマンスを表現できるかどうかなのである。

試験で緊張するタイプの生徒には、そこも含めて、特に「想定の範囲内」であるように十分練習する必要がある。受験生の多くは、音楽で勉強したくない気持ちをごまかして何とか進めている場合もあるかもしれない。ある意味、それはそれで勉強を長続きさせるために重要なことである。(思考が妨げられないように、特に日本語ボーカルはやめた方が良い。クラシックにしておく方が良い。効率が落ちる)

勤務校は、部活動で全国大会に出場するような部であるが、強い部では、インターハイの会場を想定した練習をする。例えば、暑さ対策。30度の中で体育館を閉め切ったまま練習をするとか、普通でも厚手の服を着たまま練習をするなどのことをして、イメージを膨らませる。そういう作業は非常に有用なのだ。それほどの価値があるものであれば、それくらいのことは当たり前のようにするはずである。

ただ、受験の臨場感の中でどうすればいいか。1つはあえて少し環境を悪くして勉強してみる。これは集中力がある程度ある時でないと難しい。勉強にならない場合もあるだろう。その状況下で勉強をするというのも1つの方法かもしれない。公共の図書館ではこそこそとした私語をする人(そういう人がいること自体が問題だ)も中にはいるので、そこに行ってみるのも1つの方法かもしれない。わざわざうるさいところに行くのも時間の無駄なので、さしあたり、登下校で勉強をしようとするときにうるさい人がいても勉強してみて、その状況下でもあえて勉強するというところで手を打ってみてはどうだろうか。

解き終わった時間も含めて練習だ [受験生たちへ]

センター試験の練習をひたすらしている。練習を本番の気持ちで勉強することは非常に大切なことである。できるようになってくると、時間を測って練習をし始める。それは、どこのセンター試験の必勝法にも書いてある。しかし、見直しの時間寝てしまうのでは、せっかくの練習の効果も薄れてしまう。本番の試験中に寝るのならばともかく、そんな「なんちゃって」受験生、あるいは絶対の自信を持っている受験生(そんな人であれば、緻密に勉強するだろうからあり得ない?)でなければ、センター試験の練習の中には見直しの時間も含まれている、ということである。

見直しの時間がない生徒にはできない世界だが、見直しができる人間にはいろいろなことが見えてくる。私も、そういえば、受験生の頃にいろいろと気がついたことを思い出した。大きく2つあった。まず、見直したときに、間違えを発見したときにどう対処するかということである。私の経験上は、数学の問題は流れで解いているから見えることがあるので、直さない方がうまくいくことが多いが、「絶対に間違えだ」という根拠が見つかった場合には直すことにしている。そこで、その根拠を見つけるために大切なこととして、丁寧な解答をある程度書いているかどうかということが出てくる。簡単に言うと、丁寧な解答を書いていないと、見直しようがない。これはあくまでも私の話ではあったが、その人それぞれ思考の回路があり、その中で出てくることなので、その人特有のものもあるはずである。そこを自分で見いだすことも大事になってくる。ぜひとも、見直しの時間も含めて練習をしてもらいたい。寝るのは、満点の自信があるときのみだと思う。

ほかのところにエネルギーがためておくことも戦略上必要なハイレベルな人もいるかもしれない。ただ、圧倒的多数の人たちは、そんな余裕はないと思う。

学校には時計があるが、センター試験の会場にはない可能性がある [受験生たちへ]

大学入試センター試験の会場は大学である。大学の会場に時計がない可能性がある。私が思うに、その可能性の方が高い。大学には、時計を置かなければならないというルールは存在しないはずである。下手に、そんなことを要項でうたったところで、設備投資代を大学入試センターが会場校に払ってくれるわけでもないのだから、設置するように、というルールが存在することは期待できない。また、もしも、設置されている時計に障害が発生して「時計が止まった」などの問題が起こった場合に、責任を問われたくないはずである。したがって、大学側は普段時計を設置している場所だとしても、時計を外すかもしれない。例えば、会場の時計から遠い生徒と近い生徒とで不公平感が生じるかもしれない。「時計が見えなかった座席が悪い。責任を取れ!」そんなゴタゴタが起こらないようにするためには、会場に時計を設置しないのが一番である。リスニング試験でイヤフォンを使って試験をするようなご時世だ。あのリスニングの機械の導入で面倒さは増大しただろうが、「遠かったから音が聞こえなかった」と言われない対策とも言える。あらゆる苦情の可能性になる種はつみ取っておかなければならない。

もしも、私が受験会場責任者だったら時計は置かない。普段そこにあったとしても、外すように指示する。もしも、そこで時計があることにより発生する不備を問われたとしても、責任者は、「時計を持ってくることは要項に書いてあるだろ?ちゃんと読んだか?持ってこない方が悪い!」で済むのだ。大人の世界はそんなものだ。

受験生自身は携帯電話で普段時間を確認している場合でも、腕時計などを持つことが望ましい。当然、試験対策の段階から練習するためには、時計は直前ではなく、ある程度使い方がわかるだけの時間を経た上で使うのが望ましい。

センター試験の願書の訂正 [受験生たちへ]

センター試験で願書の内容の訂正の機会があった。大学入試センター試験も、ミスをすればマスコミにたたかれることになる。もちろん、受験生を持つ側も同じだ。

最近の生徒の中には、これまでなかった傾向があることがわかる。

① 「自分の家の電話番号がわからない」
 携帯電話が浸透してきてからというもの、電話番号を知らない生徒がかなり増えてきた。併せて起こったのが、「自分の家の住所がわからない」という傾向である。よく言えば、外部の情報を端末に入れておくという文化が定着して、脳内の負担が減ったことになるのかもしれない。(その分有意義な内容を記憶していることに期待したい。)まあ、それはそれで良いのかもしれない。付随して、「郵便番号がわからない」ということも多々存在する。7桁になってから複雑になったので仕方がないのかもしれない。当たり前だが、さすがに本人の住所が合っているかどうかを確認するような学校は存在しないはずだ・・・携帯電話のメモ帳に自分の家の住所と郵便番号は控えておくと良いのかもしれない。

ちなみに、勤務校でも、訂正した生徒がいたようだ。

そして、さすがにこれは少ないとは思うが・・・。

② 自分の名前を間違える
 「そんなことあり得るか」と思う人もいるかもしれない。記憶喪失の人でなければ、基本的にあり得ない。ただし、自分の名前の漢字が違って、正確に受験生という認定を巡って把握できず、もめる可能性があるという話を聞いた記憶がある。過去の話なので今はどうかわからないが、漢字の字体が多数存在する名前を持っている場合には、確認した方が良いのかもしれない。丁寧な学校は、要項などに確認文章が掲載されているはずだ。「澤」←→「沢」のように、易しい方の漢字を使って、実は本名は難しい字であったという場合には、もめる場合があるのかもしれない。受験者と本人が一致していないということを言われる可能性がある、という意味である。

と言っても、もうセンター試験の訂正の期日は過ぎてしまったか・・・。以降、誰かが検索するかもしれないので、備忘録とする。

センター試験の選択問題のマークミスの可能性は大失点を誘発する [受験生たちへ]

センター試験の本番で、もしも、選択科目のマークを間違えれば、致命的なミスとなる。「そんなの誰でもわかっている」と思っているし、実際そうであらねばならない。だが、実際問題として、それがわかっていても、そこまでの人生の中で最難関と思われる選抜試験がセンター試験だったりすると、本番で、「あ、社会の選択科目マークし忘れたかも・・・」「数学ⅡBにマークしたかな・・・」と思った瞬間、頭から離れなくなり、さらに試験問題に手が着かなくなり、本番では大きな失点につながる可能性がある。下手をすると、選択科目を間違えれば、志望校を受ける権利すらなくなる。

実際、このことで少なからず受験生の心理に大きく影響を与える場合は多いように思う。十分、受験生は、模擬試験時期からこのことについて留意してもらいたい。普段学校で受験している現役生であれば、ある意味、「先生が直しているだろう」という安心感が働くかもしれないが、本番では、試験官に聞くこともできず、悶々とすることになるのかもしれない。試験官も、受験生の人生に関わるようなものに触れることもしたくない(何らかの責任を負いたくない)だろうから、直してくれることに期待すること自体が間違っている。受験生は自分の身は自分で守るために、普段確認することがないようなものでも、きちんと確認をするという習慣をつけたい。これは練習段階(模擬試験や平素の段階)から意識すべき事柄である。

数学Aの「整数」を考えるのに不可避な素数のこと [受験生たちへ]

新課程の数学Aでは、整数という項目がある。

整数を学ぶ上で欠かせないのが、素数である。

素数では、1とそれ自身以外で割り切れない数ということである。(1は含まれないことに注意したい。)

基本的には、素数をたくさん知っておくに越したことはない。特に約分あたりで知っておくと便利かもしれない。約分では互いに素という概念が出てくる。

中学校の素数を学ぶときに、2,3,5,7の倍数を消去して100以下の素数を出した記憶があったので、久しぶりにやってみた。

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こういうことを地道にすることが、数学ができるようになる方法の大きなひとつであることを忘れてはいけない。表面的なノウハウよりも、経験的なものの方が物事を自分のものにすることができ、自分の力にすることができる。大人になってくれば、ここから法則性のようなものを見つけて、さらに発展的に考えることができるので、興味深かった。私が中学生のときに進研ゼミで出てきた内容を思い出した。

指導者の方々も、ためしにやってみると、新しい発見ができて楽しいと思う。

赤本がいつも正しいとは限らない [受験生たちへ]

先日、とある学校の赤本の問題について生徒から質問があった。その中で、解答をみて「ん?」と思うものがあった。

熱心な指導者だったら誰でも知っていることだとは思うが、ちまたに出ている解答が必ずしも正しいとは限らない。

高度になればなるほど、間違えた記述も増えてくることになる。

高校入試用の問題集ではなかなか無いことである。それほどより難度の高い内容になれば、ミスが増えると言うことの表れでもある。


なお、易しめの問題集の中には、中身の厳密さを欠いたものも多い。厳密さよりも、わかることに主眼に置くとそのようなことが起こる場合もあるのだろう。

できなければ諦めるくらいの発想 [受験生たちへ]

これだけ年齢を重ねると、資格試験的なものとか、採用試験的なものなど、いろいろな経験をしている。

そのとき感じるのは、与えられた時間内に最大のパフォーマンスを発揮するためには、ある種の割り切りも必要だということである。

この問題集でとれるところまで点数を取る言う発想。逆の言い方をすれば、「これに出ていない考え方などは捨てる」という発想である。この発想をするのは勇気が要る。

この発想のメリットは、「試験直前になったときにあわてない」と言うことだろうか。たくさんの問題集に手を出すと、わからないことがたくさんあることで焦ることになる。メンタルの段階で本番で良い点数を取るという意味で良い結果に繋がらなくなるかもしれない。

理系の国語と社会、文系の数学と理科あたりは、これでやってもある程度のところまでは行けるように思う。プラス、実践力をつけるために模擬試験の解き直しもあった方が良い。

これらのセンターのみとなるような科目は、あまり深追いして、大事な科目への手が届かないようにしたいものである。

基本的には、センター試験のみの科目については、そのような対策の方法が現実的であろう。もちろん、日本を代表するような学校になれば、そうもいかないが。


大事な科目では、特に私大3科目型の入試では、コアなところからマニアックなところまで網羅しなればならないので、何冊も問題集を買って横断的な学習をしなければならない。

そのときにどの問題集に取り組むのか、というのはけっこう大きなことになるな。問題集のセレクトはかなり大きなウエイトを占めることになる。受験生たちは、数学はもちろんのこと、他科目も含めて情報収集に努められたい。

現役生の夏休み後 [受験生たちへ]

ほとんどの学校では夏休みが終わったはずである。秋雨前線が秋の空気を作っている。

夏休みが終わって、上がってくるかどうか、実感がわからない場合が多いだろうが、これから伸びていくのが現役生である。センター試験の点数が伸びてくるのは夏休みに弱点をきっちりたたいたかどうかが重要なポイントである。これからどうなって行くのかを信じられるかどうか。

誰しもが厳しいこの受験生の毎日。休みたい気持ちもあるだろう。そこで休んでしまえば、成長が鈍るのは当たり前のことである。相手も同じように努力している。

部活動と本質的に同じで、辛いところでもう一踏ん張りするか、休憩するかなのだと思う。もう一踏ん張りしない人は伸び方がゆるい。もう一踏ん張りする人は、伸びが大きくなっていくだろう。高校生クイズで、「知のアスリート」という言い方をしていたが、ある意味、なかなかいい表現だと思う。

ただ、オーバーペースにならないように注意したい。一夜漬けしたところで、翌日体力が足りなくなるようでは、長丁場の戦いではあまり意味がない。

受験生の夏休みの最低ノルマは、これまでの最大値を超えること [受験生たちへ]

天王山。暑い日々が続く。

受験生の最低ノルマは、わかりやすいところで言えば、これまでに一番勉強したと言える時間を超えることであると思う。

受験が「人生の中での大きな出来事」として語られるのはいつの時代も同じだと思う(そうでない人たちも増えてきた)が、それは人間的にも大きく成長するからだと思う。


結局、受験は人生の成長のために通らなければならないことなのだと思う。

ここで妥協するのも人生、ここで自分を鍛えるのも人生。才能よりも努力だ。才能がある人は、努力とかけ合わされることによってさらに磨かれていくかもしれないが、それも努力あってのことだ。


結局は、何事も自分に勝つか負けるか、なのだと思う。

その1つの指標は今までの自分を超えることなのだと掲げた。

そこに新しい自分が見えてくる。またそこで新しい自分を再構築することができる。そしてまた新しいハードルがでてきたらその自分を超える。多分人生とはそれの繰り返しなのだろう。


ドラゴンボールの世界は良くできていて、限界近くまで自分を追いつめれば、力の最大値が上がる。あの世界観は、小さなこどもでもわかるようになっている、ということは、人間は、それは正しいということを何となく理解しているということなのだろう。

夏休みは受験生の天王山 [受験生たちへ]

ついに天王山の時がやってきた。受験生にとっての夏である。

私が高校生の夏の話をせっかくだから思い出してみた。当時から「夏休みは受験の天王山」という言葉はあった。

英語の先生から、授業中に「書き換え問題集をやれ」と言われたので買ってみた。著者は西尾氏だったと思う。日本英語何とか協会というところが出していた本で、少しマニアックな雰囲気があった。かつてはインターネットもなかったし、情報もない。本屋さんも近くの大手の店は1つしかない。田舎だったので、有名な問題集がどのようなものかもよく知らない。だから、先生の言うことを聞くことにした。これはノルマのページを設定していたはずだ。20ページだったかな。章を区切りにしていたかもしれない。私は国公立2次試験受験組だったので、センター対策よりかは表現力の幅を広げる意味で、また、整序問題の対策にもなったことを覚えている。それから、英語の長文を読むのが好きではなかったので(国語が嫌なのと同様)これまでは体が受け付けなかった長文対策として、旺文社の薄っぺらい英語の長文問題集をやった。どちらかというと、私大の難しい大学が多かった記憶があるが、長文を速く読むことと、精読を両面からすることによって、力がついた気がする。長文を読むための抵抗がなくなった。これは確か1日長文を3つ課していたはずだ。

嫌いな国語も嫌いだから逃げずに向き合った記憶がある。現代文は田村の現代文講義をずいぶんやった。古文・漢文は、正直受験までの対応としては不十分になってしまった。その原因は、夏休み中の手を打つ遅さだったと思う。浪人したらこのへんはもっと手を打ててセンターの点数にできていたと思う。

社会や理科などどちらかと言えば覚える系に本腰を入れ始めたことを覚えている。これは確か1日2時間ずつ時間を割いた。

数学は、4STEPをやり直していた記憶があるが、重点課題ではなかった気がする。正直、この部分は今振り返ると反省点だ。この反省があるので、私はこのようなブログをやっているという部分もある。1日2時間では、国公立大学の2次対策としては明らかに不足していると思う。4時間くらいはやるべきだったかな。そこは基本的な反省事項として残っている。この部分は、浪人していたらもっと力がついた部分だった気もする。

(まあ、大学で勉強したのだからそれは良いのだが・・・。)


さて、浪人しなかったので受験生としての夏休みは一度しかなかったが、今まで「やりたくない」と深層心理の中で感じていたことと向き合う夏だったんだな、と思う。嫌だから逃げるのは簡単だが、逃げずに取り組む強さをここで発揮できたから、今の自分がいるのかもしれない。

それをやっていた場所だが、それは学校だった。今教員になっているような人間は学校を中心とした生活を送っていた。誰もいない学校に1人。ときどき2、3人(友人)。今の学校のように「責任」だの「管理」だの言われる時代でなかったので(面倒くさい時代だ)、「来るな」とも言われないので好きに勉強していた。自分に向き合う時間として集中していた。たぶん、午前8時から午後6時半くらいまではしていたと思う。帰るまでにする内容もきちんと決めてあったし、英語の長文は「何番の長文から何番の長文まで」と言うことも時間を切って決めてあった。時間を守ること、課題を守ること、できるからといって多めにやったり、少なめにしたりもしないのが基本。ペースは守る。

当たり前のことだが、暑い日もあれば寒い日もある。やる気が出ない日もあればやる気が出る日もある。頭がもう働かないところまで自分を追い詰めれば、気が遠くなる。頭は勉強の内容を拒絶するようなこともあったが、それでも走り続けた。走るしかなかったのと、走らなかったときどうなるかが不安だったのだと思う。勉強しないことへの不安は、勉強をして払拭するしかない。また、基本的に計画的にきちんとしていないと気が済まない性格。自分でも嫌になるが、まあいいやという遊びの部分が他の人と比べると極端に狭い。どの問題集をどこまで行うか、については必ず行うことを自分自身に厳しく課していた。


唯一「積極的休養」として取り入れていたのは、夜の8時から9時まで行っていた「5キロのランニング」であった。私の家は基本的に健全な「たまり場」だったので、なぜか夏休みになると、走り込みのために集まる習慣があった。元中の陸上部の友人たちと走るのは、たまらなく気持ちの良い時間だった。「疲れたらランニングをする」というのは運動が好きでない人たちにとっては滑稽かもしれないが、非常に良く機能していた。あとは、ストレス発散に片道4キロの登下校の自転車こぎが気晴らしになった。勉強とは関係がないが、秋に行われる、72キロのマラソン大会に向け、体力を上手に調整するために役に立っていた。

それから、街のど真ん中にある学校だったので、近くにNHKの地方放送局があった。そこで大好きな高校野球をみることはあった。当時は考えなかったが、あのときに甲子園で活躍していた人たちは同じ学年の人たちだった。しかし、それをみたこともそれほどは多くなかったと思う。友人にも恵まれた。ときどき学校に来る友人とは、「お互いの勉強を絶対に邪魔をしない」という暗黙のルールがきちんと守られていた。今と違って携帯電話もないので、いつ集まるかなどの打ち合わせは一切しなかった。相手が来るから来るとか、そういう話でもなかった。


確かに勉強は辛かったが、今、振り返ると、人生で一番充実した中身の濃い夏休みだったのかもしれない。人間は楽をしたい生き物であるが、楽ばかりしていては、先の道は開けない。食べたくないものも食べないといけない。嫌なことは嫌だ。でも、しなければいけないことはあるのだ。そこから目をそらしてはいけない。その強さがこれからの人生の道を開くのかもしれない。勉強をすること自体は賢くなるためのものだが、それとはまた違う、経験としての勉強という意味合いもあったのかもしれない。ここでの経験を得て、達成感とか、充実感を得ることは、たぶん人生にとって大きなプラスになっていくに違いない。そして、たぶんそれが人生で待ち受けている他の困難なことに向かっていくための基礎として本人に根ざしていく。忍耐とか、努力とか、自分と向き合う経験を通して人間としてひと回り大きくなることができる。

自分をどのくらい追い込めるかどうか。それは自分自身が決めることであり、その度合いは自分が決めることでしかない。自分に言い訳をすることもできるし、自分に妥協しないこともできる。すべては自分で設定することだ。自分で考えろ。

これまでの人生の集大成。秋以降の大きく結果に繋がる夏休みの過ごし方に期待したい。

おまけ


自分のために戦え [受験生たちへ]

勉強をやらされていると思っている人に、この言葉は胸に刺さるかもしれない。

中日の落合監督が、解任されることが決まった日本シリーズの前に言った言葉。


「オレのために野球をやるな。自分のために野球をやれってことだ。」



自分のため。それが1番にくるべきだと思う。勉強は、誰かのためにするものではないと思う。そうなればやらされる感が強くなり、力が入らない。その気持ちがあってだめとは言わないが、それでは本当に力がついていくことはない。

誰かのためにと言うことでは、どうしてもさせられる感が出てしまう場合があるが、自分のためというので逃げられない。

最終的には自分のために勉強はするものだ。「自分のために戦え」というのは勝負師として1番心がけるべきである。

受験は人生をかけた戦いだ。親のためでもなく、学校のためでもなく、自分のために戦え。

完璧主義の人が陥りやすいこと [受験生たちへ]

受験シーズンが近づいている。

完璧主義と言うことが、1つ大きくのしかかってくることがある。

「センター試験で満点を取りに行く」ということはかなりリスキーなことである。満点を取るためには1問も落とせないわけだが、それが無駄な労力を生んでしまうことがある。できない1問に妙にこだわってしまい、結果、他の問題も落としてしまうということにつながる。

通常の学習では、こだわりを持って取り組むことは悪いことではない。むしろ歓迎すべきことであろう。

しかし、こだわりすぎて点数を落とすことが特に大きな試験では許されないミスである。何のストレスもなくして満点を取れれば問題はないが、自分でプレッシャーをかけてしまい、結果崩れる場合には大崩れになることが多い。

直前期の受験生にはくれぐれも注意してもらいたい。1番恐ろしいのは大崩れすることである。満点を取り逃す問題が1題あっても、それで勝敗が分かれる可能性は低い。むしろこだわりすぎて全体的に崩れることが恐ろしい。大崩れをすることそのものが進路を変えることにつながる。


あわせて、日常の学習ででも、受験までの時間が近くなればなるほど、こだわりすぎることができなくなっていく。トータルで点数をとるためにどのような戦略をとればいいのかを自分で考え、実行する能力が求められる。全体像をきちんと見通して勉強をする力。社会に出ても必要な力だ。こだわりを捨てることも直前期には必要になってくる。特に周りが見えなくなるタイプの人には気をつけてもらいたい。

最後まで諦めなかった伝説の生徒 [受験生たちへ]

最近の生徒はあきらめが早い。どうせ駄目だからと思っているのか、傷つきたくないのかは、人それぞれだが、一生懸命やることがない。

数年前に工学部に進学した生徒が私のところにやってきて、大学の授業のノートを見せてくれた。

見せてくれたノートは、工学部らしいことを学んでいる様子が見えた。

その卒業生は、とても嬉しそうだった。そして、その嬉しそうな生徒を見て、その生徒が高校生の時のことを思い出した。


高校生の時に、私の授業の数学3Cを受けていた。その生徒はお世辞にも成績が上位にいる生徒ではなかった。むしろ下位にいて、何度も質問に来る生徒だった。野球部に所属し、それが終わってから勉強をしたからというわけではないが、来る日も来る日も居残って学習していた。その質問がしつこい。私が職員室にいると、それを待ち伏せて勉強をしている。「ここわからないんですけど・・・」聞くポイントはいつも基本的なことばかりだった。そして教科書傍用問題集を1問1問やっているのだが、いちいちわからない。「平方完成の仕方」「余弦定理定理の使い方」「指数法則」「logとは何か」「加法定理」「二倍角の公式の作り方」「半角の公式」「三角関数の合成の仕方」「合成関数の微分」・・・。

そこで、いちいちわからない生徒があまりにもしつこくなったので、自分の仕事をその生徒の隣でするほどになった。聞くことがそれほど多かったのである。そんなことが続いた。他の先生は恐らく、心の中で「あいつが国公立大学に合格するわけがない」とたぶん思っていたと思うし、自分も、「言うのは良いけれども、結局どこかで妥協するしかなくなるのかな」・・・と何となく思っていた。それでもその生徒はしつこく聞いてきた。本当にしつこかったので、ひよっとすると、他教科の先生はあまり関わらないようにしていたのかも知れない。でも、せっかく聞きに来ていたので私はとりあえず対応はしていた。冬の寒いときだろうが、冬休みだろうが直前までしつこかったが、聞かれたことには答えていた。でも、正直な話、私もだから合格するだろうとは思えなかった。たぶん、彼の友人もそういうシナリオが待っているとは思っていなかったのではないだろうか。

ところが、センター試験が終わって、その判定を見ると、他の生徒はいまいちだったのに、その生徒にB判定がついた。うちの学校の生徒の中でもお世辞にも力がある生徒ではない生徒が国公立大学のB判定?結局、残念ながら、2次の実力がなかったので、一浪してしまったが、一浪しても合格するかどうか心配だった。浪人中には精神的にかなりしんどい時期があったようだが、無事、翌年、その大学に合格した。私の中ではこの卒業生は本校の進路実績の隠れた伝説だと思う。本人には申し訳ないが、それほどびっくりすることであった。

そして、学校に久しぶりに来た彼は、ノートに積分記号がたくさんあるような問題やオイラーの定理を理解して使って解けた話を、喜々として私に語るのである。


受験は気持ちの部分が大きいということをあらためて感じさせられた。1つ言えることは、たぶん彼の勉強を一番面倒を見ていただろう私から見るに、わからないことをわかろうとするという意味では妥協のない生徒であったという1点に尽きた。

たぶん限界を自分自身で引いてしまって、みんなは妥協している部分もあるんだろうなと思う出来事である。その生徒のことはいまだに思い出す。「体を壊すほど頑張れ」とは言わないが、自分で限界を引いてしまわないでやれるだけやってみることの大切さを学んだ。やらないで後悔するよりも、やって後悔する方がよい。気持ちがあればまだまだ伸びしろはあるものなのかもしれない。すべてはやってみないとわからない。


そして、高い山を登り切って、高いところから見下ろす気色はきっと最高だ。その景色を見ることができた彼の将来が本当に楽しみだ。

一流・二流・三流の差・勝手に定義? [受験生たちへ]

学校祭の季節を過ごしている。今日で学校祭まであと1日。

毎日、宿題を出して、最低限のことを課している。生徒は良くやっている。

ただ、職員室で横に座っている先生に「言われなくてもやるようになってくれればいいんだけどね」と言われる。

悲しいことであるが、そこまではいかないのが実情かもしれない。

私は勝手に

一流は才能があり、かつ言われなくても必要な努力も行える生徒であり、二流は才能はないが言われなくても努力する生徒であり、三流は才能があるが努力しない生徒、あるいは言われたことだけはやる生徒だと思っている。

これが正しいかどうかはわからないが、ひとつの指標にはなると思っている。





高校時代、学校祭の期間中でも英語の勉強や数学の傍用問題集はやっていたと思うけどなあ・・・やっているのかな。

他人に考えさせてもらえるわけがない! [受験生たちへ]

高校時代に先生がぽつりと言った。

「中学校時代に塾に行っていた生徒よりも、行っていなかった生徒の方が伸びしろがある」と。

私が教えている生徒の大半は塾や家庭教師をつけていた子である。ただ、中には、そうではない生徒がいる。そういう生徒はかなり高い割合で伸び白を生かして成績上位に入っていくことが多いように思う。

理由はいくつかあるが、
①テクニックによらずに、自分の実力をつけていく傾向があるということ。
②自分で勉強をするというスタイルが確立しているということがある。

①テクニックを知りたがる傾向は、受験生にとって、おいしいやり方を知りたいということの中で求められているのかもしれない。しかし、高校の数学では、その背後にある理由がある程度わからないと、知識が長続きしないということの中で圧倒的な分量を消化することは通常の人間には困難である。

②自分で勉強するスタイルが確立しているかどうかはかなり重要らしい。「言われて勉強をすることが身に付いている」生徒は逆に「言われないと勉強しない」ということになっていくことが多い。「自ら進んで学ぶ」ということが、「何もしないでも(世の中は豊かだから)生きていくことができるのではないか」と錯覚している受験生は多い。実際、「勉強なんてしなくても何とかなる」と思っている人間の何と多いことか。

塾や家庭教師が1つの学習する動機になっている場合、大変すばらしいものである。しかしながら、それに頼る生活を勘違いしてしまうと、他力本願になり、自ら思考することなしに学習を使役されることで学習をした気になり、学ばなくなってしまうということが多い。


それは物事を考える力を身につけさせたい大学の欲しい人間像ではないということである。

とは言え、それを突き詰めると「学校なんていらない」という論になる。指導者側の論理として、「どこまで考えさせて、どこまでを教えるのか」というバランスの上に成り立っているのだとは思うが・・・。受験生にとっては、すべてを教えてもらおうというのは、学ぶ姿勢としてよろしくないということに早く気がついて欲しいものである。何度も何度も考えて、その結果として自分のものになるという経験の積み重ねであることに気がついて欲しい。自ら学んできた生徒には、それが身に付いている場合が多いのである。


定期試験中に高校に入学したての生徒が「その問題は習っていないのでできません」と手を挙げて質問する生徒はその典型と言えよう。

面白いところが見えるまでは忍耐すること [受験生たちへ]

数学の基本的なところは計算力的なところである。

数学の論理的な枠組みがわかっていても基本的な計算力がない生徒がいる。文字通り、「頭がよい」生徒だとしても、必ずしも計算的な突破力があるとは限らない場合がある。

計算は地道なものなので、応用問題を解く中で身につけていく言うことができるのならば、理想的で無駄がない勉強といえる。しかし、残念ながら、必ずしもそうはならない場合もあるだろう。そうなれば、あまり好きではないかもしれないが、「勉強のための勉強」的な要素としてある程度の計算問題を解く必要がある。

もっとも、多くの受験生にとっては計算をものにして、そこから少しずつ難しい問題を解くための突破口を切り開く場合が多いのではないだろうか。

本筋がわかるようになれば数学は面白いが、その本筋がわかる手前の段階では地道な計算をきちんと学ぶ必要がある。努力をしない「才能に頼る型」の人間にとってはそれがどうもできないらしい。数学の根幹をなす論理的な手続きをきちんと学びたければ、まずは地道なところからの積み上げをしっかりすることだ。そのことが固まれば、論理的な思考が得意な生徒にとっては、驚くほど急激に実力がついていくはずだ。まずは忍耐して計算や公式などの道具を自分のものにすること。そこからその計算の背景にあるものを自分のものにする作業も併せて行っていくことだと思う。遠回りだが一番確実なのはその方法である。

もともと、知的好奇心がある受験生にとっては、その手前の忍耐する部分を粘って、数学の中でも面白い世界が広がっているところに早くたどり着けるかどうかが鍵だと思う。

信念がある人間の周りには芯がある人間が集まる [受験生たちへ]

受験は孤独との戦いである。もっと踏み込めば自分との戦いである。

ただ、周りの環境の部分も大きい。特に流されやすい人は環境のせいにしたがる。しかし、それで流されるというのは言い訳に過ぎない。さらに言えば、「自分はどうなんだ?」と言うことでもある。

自分の信念を持って取り組むことが大切だ。信念は揺らぐことはあるだろう。しかし、それは成功する人が必ず通るところなのではないか。表現をするかしないかは別にしても、心の中で葛藤は誰しもあるはずである。

真剣に取り組んでいると、面白いもので、周りに集まってくる人たちというのは真剣な人たちが多くなる。人間は、そういうにおいをかぎ取るところがあるのだろう。同じような価値観を持っている人たちが集まるようになっているものである。周りにいる人たちを見てみよう。価値観が同じ人間が集まることが多いではないか。

予備校の先生に浪人するときにアドバイスされること、それは、「いい友達を見つけろ」と言うことだ。いい友達を見つけるためには自分に「芯」がなければならない。芯がない人間の周りには芯がない人間が集まる。いい友達を欲しければ、自分自身の「芯」をきちんと持つことだと思う。

もしも、自分の周りにいる友人の性質を考察すれば、周りの人間からそのように思われていると言うことなのかもしれない。

受験生たちよ、いい友人に恵まれるためには、自分自身を磨け。

大事な技は盗むことだ [受験生たちへ]

大事なノウハウは、実はネット上にはない。

どのような仕事にしても、本当に大事なものは、ネット上に載っければ、商売あがったりである。この仕事に限らず、他の仕事も同様である。

一般論で語られるようなものはちまたに多くあるが、それを合わせたものだけでは限界があるのだ。

農業には農業のノウハウ、酪農家には酪農家のノウハウ、獣医師には獣医師のノウハウ、予備校の先生には予備校の先生のノウハウがある。ネットやテレビでそれを100%紹介するような人は、よほど商売気がない人か、大馬鹿者かのどちらかである。


ネットにはそのすべてのノウハウが何でもあると思っている人は、大間違いである。

本当に大事な核になるものは、実はよほどの関係でないと教えてもらえないのが普通だ。

この情報が氾濫している時代では、そういう技をいかに盗めるのかと言うことの方が大事だと思うが、技を盗むためには、普段の人間関係と、技を盗めた目の目がないと難しい。結局、それって頭がいいかどうかなのだな。


本当に実力がある人からは、技は教えてもらえない。技は盗むものなのだ。

受験生はクラシックだよな [受験生たちへ]

受験生の時には、「音楽を聴きながら」ということを一度は考えると思う。出先で勉強していて、周りがうるさいとなれば、音楽で集中するということはよくあることだろう。

そのときには、自分の思考がじゃまされない音楽でなければならない。

自分の思考がじゃまされない音楽は、言語では難しい。どうしても言語は言語で考える思考のじゃまになってしまう。英語がさっぱりの人が洋楽を聴いてもさほど影響がないのかもしれないが、英語が得意な人にとっての洋楽は思考のじゃまになってしまう。

ということで、クラシック音楽が無難なチョイスになるのかな。

勉強をしているふりをしていても、結局は中身だ。いい環境でいい勉強を深めるために音楽を使うのは悪くないが、使い方によっては逆効果になるので注意が必要だ。

自立した学習とは [受験生たちへ]

「やらさせて学習する」のと「主体的に学習する」のでは、同じことをしていても、時間の使い方が全く違う。

密度の濃い勉強をするのは後者であることは言うまでもない。

私はできるだけ宿題は出したくないと思っている方だが、宿題を出す前に自らに課題を課して、自分のペースで学習をできるのであれば、それが一番だと思うからである。そういうタイプからすれば、強いられて学ぶというのは気持ちの良いものではないのだ。

自立した学習をするためには、学習するための意味が本人の中になければならない。

私は「外発的動機付け」「内発的動機付け」という言葉を使っているが、外発的動機付けというのは、自分の外側からの動機、例えば、「親が言うから」「怒られないように」「宿題が出されているから」などの理由が挙げられる。内発的動機付けは、自分の内側からの動機、例えば、「自己実現のため」「自分のため」「勉強して賢くなりたいから」などの理由が挙げられる。

宿題できないから答えを写すというのは、全く効果がないかというとわからないが、効果が薄いことは間違いない。自ら主体的に勉強する意味を問い続け、それに向けて実践することの大切さがこの時代には特に大きな意味を持つとつくづく思う。

「キャリア教育」「職業観の育成」など、今の時代には「何のために」ということが見えにくくなっている訳だが、そこが明確になりにくい時代だからこそ、様々な経験をすることに意義があるのだろう。

とりあえず勉強すれ [受験生たちへ]

朝、車でコンビニに朝ごはんを買いに行ったとき、新しいスタイルで仕事に出かけると思しき方々をたくさん見ました。退職される方がいれば、新しくこられる方もいる。新入社員の方なのでしょうか。そういう意味では毎年変わらない光景です。

いよいよ新年度が始まりましたね。

新しい気持ちということできたい半分、不安半分というところですが、動き出したらやるしかないのです。自宅を離れて、別の場所に移って新しい職場に行く場合には、原風景として残る光景ですね。

先日、卒業した生徒たちも今日からそれぞれの道を歩んでいることでしょう。


厳しい世の中は加速していきます。「安定的だ」「変化がない」「世の中が変わっても最後まで変わらない」と言われた教育の現場ですら、非正規の教員が7人に1人の割合であるということ。残念なことですが、この割合は今後、ますます増えていくと思います。その厳しい世の中に出されることになるであろう、今の高校生たち。「人生、何度もやり直しがきく」と言いますが、仮に今、やることがなくなったら、どうやり直せばいいのかと言われると、できる人とそうでない人がいます。よほど特定の分野で力がある人でないと、やり直しはきかないのです。

どこかでタイトルを見た本ではありませんが、人生は20代まででほとんどの部分が決まってします。そのために何をしないといけないか・・・多くの場合には、勉強しかないのだろうな、と思います。


豊かな時代に生きている人たちにはぴんと来ないことかもしれませんが、あとで気がついたときには、もう遅い。気がつくかどうかも、生きるセンスのうちだと思う。人生の役に立つかどうかはあとで振り返ったらわかるから、とりあえず、勉強すれ。

最終決定は本人に [受験生たちへ]

人生相談しに来る生徒がやってくる。

相談を受けるときには、できるだけ親身になっているつもりだ。でも、自分にも限界がある。

それは、しょせん、相談を受ける側(私のことだ)は他人でしかないということだ。


アドバイスをすることはできる。でも、自分の人生に責任を取ることは、本人しかできない。


最終決定は本人にゆだねられる。肝に銘じてほしい。

究極的には、自分のことは自分で考えるしかない。

↓勤務校の図書館に入れてもらいました


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